
藤澤 啓太 さん(50代・男性)
私は実際の年齢より10歳以上若く見えるとよく言われますが、普通に会社員をしていた時よりも、皆から、若返った、イキイキしていると言われるようになりました。
何をしても、満足せず長続きせず、職業もあれこれ変え、挫折つづきの人生でした。
私が自分の人生に疑問を持ち始めたのは、大学受験勉強をしながら、なぜ勉強をするのかから始まり、なぜ生きるのかと考え始め、それを周りや親に話しても理解してもらえず、孤独を感じたことからでした。そして、色んな本を読みはじめ、地元の教会に通い、クリスチャンになり、牧師になろうと、教会に研修生として住み込み、そこで働いていました。
何年か修行をし頑張りましたが、自分や周りの人たちの中にある純粋な愛と、それとは正反対の欲や自己中心のギャップに限界を感じ、嫌になって、結局、そこを出て、会社勤めを始めました。
それでも充たされず、何か自分ができることを探して、20代後半、社交ダンス教室のインターンとして勤め、全くの素人からなんとかインストラクターになりました。でも、あれこれ落ち込んでばかりで、おどおどした毎日。ある日、先輩ペアとのぶつかりから、教室をやめなくてはならなくなってしまいました。
もっと何をしていいのかわからなくなり、また会社勤めを始め、これで人生はおさまると思いました。恋愛も人並みにして。けれども、そこで鬱のような状態になり、病院まで通わなくてはならなくなりました。1年通っても、薬を飲み続けても変わらず、根本解決していない感じがしました。そんな時ふと、自分が真にこの人生で願っていることを見つけられたら、この状態は無くなるのではないかと思い、30代半ば、もうこれで最後かもしれない自分の可能性を探し始めました。
カウンセラーや鍼灸師などいろいろ情報を探したり、占いや催眠療法に行ったりもしましたが、ヒントは得られても具体的に何になっていいのかわからず。またまた本を読み、気づいたら家でお経や祝詞をを唱えたり神社をいくつか巡るようになりました。そして「自分が本当にこの人生でできることをください。それが得られたら、ほかには何もいりません。」と毎日祈っていました。
ある時、いたたまれなくなり、長野にある先祖の墓に、車を飛ばし、雪の降る中、そのお墓の前で手を合わせたら、なぜかとても涙が溢れてきて、これまでの人生を守られてきたことを感謝し、これからの人生を本気で生きたいので私にその人生をくださいとお願いしました。
その後しばらくして、人和会に出会いました。自分が本当に願っていることが何なのかがわかったら、鬱や胃腸疾患が数カ月で治ってしまいました。胃腸は小さいころから弱く、小学生から好んで新しい胃腸薬が出ると関心をもって購入し飲んでいたほどです。そして、支部に一緒に通っている周りの方々も明るくなっていくのを見ながら、自分自身が根本から変わっている実感と、日々生きている喜びや安心を感じるようになりました。
明母様と初めて出会ったのは、私が感動で涙しながら自分の体験を皆の前で話した時です。終わった後、近づいてきてくださり、何も言わず、ただ私の手をとってくださったのがとても忘れられない出来事です。
明母様が、人々に愛と感動を与えられていらっしゃる姿を見て、私もそのようになりたいと、人和会の先生になりました。
人和会で得られた大きな変化のひとつは、100日間の自己をみつめる行をしたことです。これまで長い間、精神の勉強と実践をしても、なかなか根深く乗り越えられなかった自分の枠や習慣がありました。行の中で、そのせいで人生の中でお世話になった方々に恩を返さず、自分の思いを優先しそれらの方々を裏切り続けてきたことが自覚され、懺悔と感謝でたくさん泣きました。そして、自分を丸ごと受け入れられるようになり、枠や習慣から自由になりました。
私の夢は、60歳から通える学校をつくることです。60歳までを人生の前半期として、それ以降の後半期に120歳を目指し、真にイキイキと生きるための学校です。死という人生の最終ゴールをみなで祝うべき卒業式として、各自が自分の人生で後悔ないよう、この世での使命や役割のようなものを捜し実践するための場所です。
私がこれまでいくつかの高齢者施設にボランティアにいかせていただいた経験のなかで、最期、生き甲斐もなく寂しく亡くなる方がたくさんいらっしゃるのを見て、いまの日本の基盤を創ってくださった感謝するべき方々の体と心をいかさなくてはと思い、そんな学校を建てたいと思っています。